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探偵ナイトスクープ「ヤングケアラー回」炎上の本質はどこにあるのか

人気番組「探偵!ナイトスクープ」のとある放送回が、SNSを中心に物議を醸しています。

依頼の内容は、母親からの「長男が大好きすぎる」という一見微笑ましいものでしたが、その実態は長男が家事や育児の多くを負担しているという、いわゆる「ヤングケアラー」の状態が垣間見えるものでした。

これに対し、視聴者からは母親に対する批判が殺到し、炎上状態となりました。しかし、この騒動を単なる「とんでもない親の炎上」として片付けてしまって良いのでしょうか。今回は、この一件から見えるヤングケアラー問題の新たな視点と、SNS社会の危うさについて考えます。

「介護」だけではない、ヤングケアラーの定義

これまでのヤングケアラーの議論は、主に「家族の介護」が中心でした。病気の親や障害のあるきょうだいのケアを子供が担うケースです。しかし、今回の放送で浮き彫りになったのは、育児や家事を子供が過剰に負担するケースもまた、ヤングケアラーであるという認識の広がりです。

両親が共働きで帰宅が遅い場合、子供が自分のことだけでなく、きょうだいの世話や家事を一手に引き受けざるを得ない状況が生まれます。

大人と子供で生活時間が異なるのは社会の構造上仕方のない部分もありますが、特に保育が必要な幼い子供がいる家庭において、子供ファーストの生活リズムを維持することは容易ではありません。特に自営業などで労働時間の融通が利かない場合、そのしわ寄せは必然的に「家にいる時間が長い子供」に向かいます。

この放送は、これまで見過ごされがちだった「介護以外のヤングケアラー」という現実に、多くの視聴者の目を向けさせるきっかけとなりました。

「演出」と「現実」の境界線

番組放送後、あまりの批判の多さにTV局側が「演出が含まれていた」と釈明する事態となりました。しかし、ここで考えたいのは、テレビというメディアの特質です。

テレビで取り上げられる話題には、「非日常」が求められます。ごく一般的な、誰もが納得する「普通の生活」を映したところで、エンターテインメントとしては成立しません。

もしこの回を「美談」として着地させるならば、例えば以下のような展開も考えられたでしょう。

  • 親が子供への過重な負担に気づき、生活を改める
  • シッターや家政婦を雇い、子供が子供らしく過ごせる時間を確保する

しかし、そのような「正解」を見せられたとして、視聴者の心は動いたでしょうか。

「感動」とは感情が動くことです。私たちはしばしば「感動=泣ける」と短絡的に捉えがちですが、怒りや義憤もまた、強い感情の動きです。

もし、この番組の真の狙いが、視聴者に強烈な違和感を与え、ヤングケアラー問題への関心を喚起することだったとしたら、不本意な形であれ、その目的は達成されたと言えるのかもしれません。たとえそこに演出が含まれていたとしても、私たちの中に「これはおかしい」という視点が生まれ、議論が巻き起こったという事実は残ります。

SNS炎上の裏に見える「想像力」の欠如

今回最大の問題となったのは、母親のSNSアカウントが特定され、過去の投稿が掘り起こされたことによる炎上の加速です。

たとえ番組が演出であったとしても、掘り起こされたSNSの投稿が「子供への差別意識」を感じさせるものであったことが、火に油を注ぎました。

ここには2つの「認識の甘さ」が見て取れます。

  1. 出演側の甘さ: 実名でなくとも、顔を出して出演することのリスク、そして自身の言動が世間からどう見られるかという客観的視点の欠如。
  2. 制作側の甘さ: この内容が現代の視聴者にどう受け取られ、どのような反応を引き起こすかという予測の甘さ。

「自分にとっての当たり前」は、時に「世間の非常識」となります。炎上を回避するために必要なのは、このギャップを埋める想像力です。

そして、視聴者側の反応にも疑問が残ります。SNSでの激しい個人攻撃は、果たして正義なのでしょうか。

正直なところ、放送内容自体は批判されて然るべき側面があります。しかし、そこに費やす膨大なエネルギーを、特定の個人を叩くことだけに使うのは建設的ではありません。

「このような生活をしている家族は、他にもたくさんいるのではないか?」 「ヤングケアラーの基準を明確にし、公的支援を充実させるべきではないか?」

そうした社会的な議論へ繋げていくことこそが、この「胸糞悪い」ニュースから私たちが得るべき教訓ではないでしょうか。

まとめ:感情的な消費を超えて

探偵ナイトスクープの炎上騒動は、ヤングケアラーという現代社会の闇と、それを消費するSNS社会の危うさを同時に浮き彫りにしました。

テレビが見せるものが真実とは限りません。しかし、そこに映し出された現象は、確実に私たちの社会の一部です。

一時の感情に任せて石を投げるのではなく、その背景にある構造的な問題に目を向け、少しでも生きやすい社会にするための議論を始める。それが、情報を受け取る私たちに求められるリテラシーなのかもしれません。