選挙シーズンになると、SNSやテレビなどのメディアはにわかに「政治コンテンツ」で沸き立ちます。 普段は意識しない人々も、この時期だけは熱心に議論し、誰かを批判し、誰かを応援する。しかし、この熱狂は本当に「政治への関心」なのでしょうか?
メディアが作り出す「政治コンテンツ」
厳密にいえば、政治家は毎日活動しており、ニュースの種は常に撒かれています。彼らの一挙手一投足は国民の生活に直結する可能性があるため、メディアはそれを「関心を惹くコンテンツ」として加工し、読者や視聴者を集めることに余念がありません。
本来、ニュースとは「事実をありのままに伝えること」であるはずです。 しかし、ワイドショーのコメンテーターの意見が付加された時点で、それはニュースではなく「ある個人の感想」へと変質します。私たちが受け取っているのは、事実そのものではなく、誰かのフィルターを通した「解釈」です。それに感情的に同調することは、単にそのコメンテーターと同じ視点・感情を共有しているに過ぎません。これこそが、注目を集めることで経済が回る「アテンション・エコノミー」の罠と言えるでしょう。
日本の安定性と「政治の悪」
「政治が悪い」という言葉は、安易な不満の吐け口としてよく使われます。 しかし、冷静に自分の生活を見渡したとき、毎日・毎週のように役所へ行き、政治や行政と交渉しなければならない人は稀でしょう。
日本という国は、良くも悪くも、ある程度のシステムが自動的に回るように設計されており、政治の動向を逐一チェックしなくても生きていけるだけの「安定」が存在します。 国のせいで明日食べるものがない、という状況は(貧困問題はあるものの)グローバルな視点で見れば比較的稀です。「政治家に頼らないと生きていけない」わけでもなければ、「政治家のせいで即座に生活が破綻する」わけでもない。この「距離感」こそが、政治をリアリティのないエンターテインメント(コンテンツ)に変えてしまっている要因かもしれません。
政治家を「信じる」のではなく「使う」
政治家のせいで生活が悪くなる事例は確かに存在します。しかし、だからといって特定の政治家を盲目的に信じたり、逆に全否定して呪ったりしても、自分の生活が好転するわけではありません。
信じるべきは、自分の目で見えている範囲の世界です。そして、自分の生活を変えられるのは、最終的には自分自身の行動だけです。
もし、本当に生活に困窮し、助けが必要な状況になったらどうすべきか? SNSで政治批判をするよりも、まずは役所に行って相談すること。これが最初のアクションです。
そして、もし窓口で「使える制度がない」と言われたら? ここで初めて「政治」の出番です。 状況に合った制度が存在しないのであれば、それは「制度の不備」です。ならば、地域の地方議員に「こういう状況で困っているが、制度がない」と話を持ちかければいいのです。
議員の仕事は、そういった市民の声を拾い上げ、議会で予算や条例という形にすることです。 投票に行くか行かないかという議論よりも、「実際に声を届け、システムを動かそうとしたか」。 このプロセスの有無こそが、アテンション・エコノミーに踊らされない、地に足のついた本当の意味での「政治参加」ではないでしょうか。
まとめ:興奮から行動へ
私たちはつい、画面の向こうの政治劇に一喜一憂しがちですが、それはスポーツ観戦やドラマ鑑賞と本質的に変わらない「消費行動」かもしれません。
本当に自分の生活を守りたいのであれば、アテンション(関心)を売るビジネスのカモになるのではなく、自分自身のアクションとして行政や政治システムを利用する。 その冷徹なまでのリアリズムを持つことこそが、成熟した民主主義社会の市民として必要な態度なのかもしれません。
