服装の乱れを風紀の乱れにするのは暴論なのでは
「服装の乱れ」とは、いったい何を指すのか
服装の乱れってなんだろう。 「服装が乱れている!」と指摘する人は、その“正しい着用方法”を知っているはずだ。
たとえば制服なら、ボタンを留めるとか、シャツを出さないとか、ある程度のルールがある。でも、普段着に対して「服装が乱れている」と言うのなら、それは指摘する側が“正解”を知っているということになる。
つまりその人は、あなたの服を「ねっとり」「じっくり」と観察して、正しい着こなしと誤った着こなしを比較したうえで、「乱れている!」と判断しているということになる。
……と、こう考えると、風紀委員の仕事って、他人をじっくり見ることなのかもしれない。控えめにいって、ちょっと気持ち悪い。いや、それが仕事だとしても、他人の“乱れ”を指摘することに快感を覚えるような構造があるのでは、とさえ思ってしまう。
理屈で考えたら、少しおかしい話
ここまで説明すれば、もしかしたら屁理屈で服装チェックを切り抜ける人が出てくるかもしれない。 そう、これは屁理屈の領域だ。
でも屁理屈って、ちゃんと理屈ではある。論理的に分解していくと、「きもい」の感情より強い説得力を持つこともある。とはいえ、最終的に残るのはやっぱり感情だ。「理屈はわかるけど、それでもイヤ」みたいなやつ。
デザインの乱れと、着こなしの乱れ
鬼滅の甘露寺さんの隊服は、あれがデフォルトであって、別に乱れているわけではない。 乱れているとしたら、それをデザインしたやつのほうだ。
つまり、“服装の乱れ”を問題にするなら、本来は着る人よりも作る人のセンスを問うべきなのではないか。誰かの服装を指摘する前に、「そもそもこの服って何が正しい状態なんだろう?」と考えてみると、世界が少し面白く見える。