「時代錯誤」という批判について
https://www.yomiuri.co.jp/national/20250928-OYT1T50033/
祭りの延長で喧嘩頻発しすぎて警察出動が多い件で、この記事に対するコメントで気になったのは「時代錯誤」の文言。
ぶつかり合う祭りが時代に反しているかどうかはわからないが、無くなれば「文化の継承が━━」とかいい出しそうではある。行事のおかげで毎年駆り出される県警側としては、「またこの時期が来たか……」みたいな雰囲気だろう。
喧嘩をすること自体が時代錯誤と吐き捨てるのは、多様性の観点から外れている。個人的な「嫌」だけの感情で物事を見るのは短絡的すぎる。
警察と中止要請の思惑
とはいえ、香川県警がトラブル防止のため、手っ取り早い対処の「中止要請」を出したいレベルなのもわかる。喧嘩は最終的に当事者同士が収めることになるし、喧嘩が祭りで起きるのなら、収めるのは運営なり氏子側では?と思うわけ。
警察は交通規制で動員されているだろうけど、暴力事件として処理されているとするなら、喧嘩した同士のどちらかが刑事罰になることを望んでいるとか、一方的な暴力だったなどの背景があるかもしれない。
……喧嘩両成敗の言葉は、嘘か本当なのか。
「喧嘩=時代錯誤」論の背景
喧嘩をすること自体が時代錯誤といっているコメンテーターが多い雰囲気があるけど、小突く程度の触れ合いでも警察沙汰になったりとか、些細な衝突でも警察に相談が行くレベルの時代になっているおかげで、警察の仕事量は昔に比べて増えているような気がする。
パワハラだのは昔よりも基準が緩くなっているのは、その時代を過ごした自分にとっては明らか。しかし、「パイセンにやられていたことだから━━」で現代に触れてしまうと、パワハラ認定されてしまった瞬間は、時代錯誤だと体感するような気がする。
現代風の「喧嘩対処」を考えるなら
喧嘩が起きやすい行事があるとして、現代風に対処を考えるなら、喧嘩が起きないようにどうすればいいかをみんなで話し合うことからはじまりそう。激しい衝突が要因であるなら、ゆっくりねっとり触れ合うようにするだけでいいじゃない、と。でも大阪のだんじりが徐行でカーブを攻めても、なんも面白くはないでしょうという話になる。
行事で喧嘩が起きるのなら、根本にある要因を落とすべきだと思うし、中にはむしろ喧嘩しに来ているタイプもいるだろうから、いい塩梅で場を収める取り決めをしておけばいいんじゃないだろうか。
巻き込まれる周囲の負担
殴り合いが終わってぐったりしている所に、「ハイ刑事罰べ」と検挙していくのもいいが、怪我することで救急車要請も行くことになるし、喧嘩をすることは当事者たちには些細なきっかけかもしれないが、巻き込まれる周囲の気づかれは倍以上であるし、貴重な時間と浪費をしていることを忘れてはいけない。